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続・まちあるき帖 葛西の地

 戦国の昔、石巻は葛西氏の領地でした。と言われピンとくる人は石巻人。その次の殿様が伊達政宗です。葛西氏は400年続き17代晴信を最後に滅びました。天正18年(1590)のことです。滅亡の大きな原因は秀吉の奥州仕置です(葛西は小田原攻めに参戦せず)。晴信は居城の登米寺池城で自刃しました(異説あり)。その時、「葛西は今滅びるのではない。汝らは速やかに退城し行く先々にサイカチ(再捷・葛西勝つ)を植え領地を明らかにし団結、再挙を図れ。汝らに与えるものに藤がある。よろしく藤を以って姓となせ」と言ったそうです。

 一時、木村某という新領主が派遣されましたが、とうてい領国経営の器の人ではなく葛西の残党と百姓たちが彼の圧政に対し一揆を起こします。この鎮圧を命ぜられたのが政宗でした。一方で政宗には一揆煽動の嫌疑がありました。忠誠の形は反乱軍の鎮圧です。彼が一揆首謀者に「降参したら領地は小さくなるが名は残す」と甘言で臨んだ中で起きた事件が有名です。「須江山糠塚の変」です。

 当時、葛西家臣の多くが伊達に親近感を持っていたようです。一揆が終息に近づいたころ政宗は主な首謀者を深谷(小野)に集めました。そして「軽い裁定をお願いしてやるから、おのおの知行地で沙汰を待て」と命じたというのです。言葉を信じ、それぞれの地に向かう帰路、須江糠塚で待ち伏せしていた伊達勢数百人に襲われたのです。この襲撃指揮者の一人は後に、ローマへ派遣された支倉六衛門がいました。

 20数名が殺されました。切込みを何とか逃れ山の沢で自刃した領主がいました。「殿入沢」の史跡として残っています。もう一つ、その時、旧領主と伊達武将との一騎打ちもあったそうです。討たれた旧領主の墓が「細田塚」として残っています。

 政宗の奸計をつゆとも疑わなかった無念の騎馬武将が響かせるひづめの音が今も、山から聞こえることが時にあるそうです。

 昭和の半ばまで正月のかど松は松ではなく「サイカチ」の枝を飾る家が当地方にもありました。今でもまだまだ「わが殿様は葛西」との気が色濃いせいか、葛西史を研究する人は多いのですが何分、残る資料は同家の内紛や養子問題などが複雑に絡み合い史実が定まりません。ちなみに、同家の家紋は「三つ柏」で、石巻高校の校章でもあります。旧校歌には葛西氏の栄華がうたいこまれています。

須江山西麓の史跡説明も年代を特定できていません。待ち伏せ惨劇の「殿入沢」

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