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続・まちあるき帖 蛇田の小斉

石巻の西、畑と田んぼの蛇田地区。石巻近郊、野菜類の産地です。国道108号線が走っています。三陸道開通以降、地区は様変わりしました。大型商業施設が進出すると見る間に商業集積が進んで宅地の開発も行われています。

この蛇田の西外れに位置するのが小斉地区。この地が367年前、正保3年(1646年)3月、県南は伊具郡丸森小斉からの移住者たちによって開かれたことをご存知でしょうか。移り住んだご先祖さんたちはここに故郷と同じ地名を残しました。

さて、移住してきた原因です。仙台藩第2代藩主伊達忠宗の時でした。丸森小斉の領主・佐藤実信(1千8百石)は伊達家の一族。当時、藩内では2、3男対策を背景にした新田開発が盛んで、佐藤家も分家にした2男・定信の新天地移住を考えていたのです。藩は定信に蛇田邑高屋敷の野谷地51町歩を下げ渡したそうです。「切り開き知行存分たるべし」とのお墨付きを付けて。

定信を殿様として従う家臣は73人(士分40、足軽33人)で、総勢150人(40数戸)ほどの開拓団だったそうです。定信28歳、家臣団も18~30歳どまりでした。移住前、急ぎ結婚した人や乙女が14,5人いたそうです。

丸森から蛇田までの道のりは約100㌔。今は車で2時間の距離でも当時はもちろん徒歩。仙台、塩釜、松島を経て広渕、須江に入っています。2泊3日の道中だったとのこと。家臣が引く大八車にはクワ、カマ、マサカリの農作業道具類。日用品、衣類は「唐戸(からと)」という木車付き箪笥型の箱に入れ運んできました。

入植地は荒れ放題の湿地です。夜を日に継ぐ開墾作業で次第に美田へと姿を変えました。その原動力は一族意識で結ばれた固い団結心でした。「知行存分」のお墨付きも後押ししたでしょうか。以来40年後、表向きの知行は400石になっていたそうですが、内実は1千石だったそうです。知行1千8百石でも家臣2百数十人を抱える本家をしのぐまでになっていました。

蛇田小斉には「お上屋敷」「ご門崎」「お上前」「馬場通り」と呼ばれる場所があります。「お上屋敷」は文字通り殿様のお屋敷。現在の石巻支援学校向かいにあったらしいです。今はどこがどこやら福祉施設が建っていて分かりません。

定信公は82歳まで生きました。付近には佐藤家の氏神様「雷神社」(なりがみさま)もあり、殿様は家臣の家内安全、五穀豊穣を祈っていたそうです。平成16年、子孫らの手で再建されました。また平成の初めころ、本家と分家の子孫同士による3百数十年ぶりの交流会があったと聞きました。同じ名前、似たような顔が出会って交流を深めたそうです。

佐藤家氏神「雷神社」と「唐戸」の図面

小斉の北に位置する土和田山から当時のお屋敷付近?と開拓地を遠望。

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