石巻まち歩き帖

いざとなると、素直になれないのが自分の事。人に話すときは特にそう。
石巻を語る時はどうかな。分身みたいなきになって少しは飾って話すかな。
縄文の昔から現代まで歴史深いわが石巻。だったらそれも許されそう。
石巻は千年に一度の震災に見舞われ、今、変身中。この機をとらえて地元の伝統、文化を再確認。
宣伝べたな東北人に免じて石巻自慢をお許しください。
※現在は、地元スタッフの退職により更新を停止しています。

続・まちあるき帖 葛西の地

 戦国の昔、石巻は葛西氏の領地でした。と言われピンとくる人は石巻人。その次の殿様が伊達政宗です。葛西氏は400年続き17代晴信を最後に滅びました。天正18年(1590)のことです。滅亡の大きな原因は秀吉の奥州仕置です(葛西は小田原攻めに参戦せず)。晴信は居城の登米寺池城で自刃しました(異説あり)。その時、「葛西は今滅びるのではない。汝らは速やかに退城し行く先々にサイカチ(再捷・葛西勝つ)を植え領地を明らかにし団結、再挙を図れ。汝らに与えるものに藤がある。よろしく藤を以って姓となせ」と言ったそうです。

 一時、木村某という新領主が派遣されましたが、とうてい領国経営の器の人ではなく葛西の残党と百姓たちが彼の圧政に対し一揆を起こします。この鎮圧を命ぜられたのが政宗でした。一方で政宗には一揆煽動の嫌疑がありました。忠誠の形は反乱軍の鎮圧です。彼が一揆首謀者に「降参したら領地は小さくなるが名は残す」と甘言で臨んだ中で起きた事件が有名です。「須江山糠塚の変」です。

 当時、葛西家臣の多くが伊達に親近感を持っていたようです。一揆が終息に近づいたころ政宗は主な首謀者を深谷(小野)に集めました。そして「軽い裁定をお願いしてやるから、おのおの知行地で沙汰を待て」と命じたというのです。言葉を信じ、それぞれの地に向かう帰路、須江糠塚で待ち伏せしていた伊達勢数百人に襲われたのです。この襲撃指揮者の一人は後に、ローマへ派遣された支倉六衛門がいました。

 20数名が殺されました。切込みを何とか逃れ山の沢で自刃した領主がいました。「殿入沢」の史跡として残っています。もう一つ、その時、旧領主と伊達武将との一騎打ちもあったそうです。討たれた旧領主の墓が「細田塚」として残っています。

 政宗の奸計をつゆとも疑わなかった無念の騎馬武将が響かせるひづめの音が今も、山から聞こえることが時にあるそうです。

 昭和の半ばまで正月のかど松は松ではなく「サイカチ」の枝を飾る家が当地方にもありました。今でもまだまだ「わが殿様は葛西」との気が色濃いせいか、葛西史を研究する人は多いのですが何分、残る資料は同家の内紛や養子問題などが複雑に絡み合い史実が定まりません。ちなみに、同家の家紋は「三つ柏」で、石巻高校の校章でもあります。旧校歌には葛西氏の栄華がうたいこまれています。

須江山西麓の史跡説明も年代を特定できていません。待ち伏せ惨劇の「殿入沢」

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続・まちあるき帖 曽波神山(そばのかみやま)

 国土地理院5万分の1地図では愛宕山の表記。標高96.2㍍。北上川の西に広がる平地にポッコリと盛り上がっているのが曽波神山です。離れ小島のようにも見えます。

 この山ができたのは古生代から中生代(4億年から1.5億年前)にさかのぼるそう。周辺の山々は北上山地の南端部で、もともとは川の対岸南境のトヤケ森山(馬っこ山)と地続きだったそうです。それがある時の地殻変動で陥没、分離してしまったのが曽波神山。山の東斜面とトヤケ森山の西斜面は同じ岩質。粘板岩、砂岩、花崗岩が証拠立てているとのこと。もう地質的にはすっかり老齢化した山だそうです。藩政時代以前の金採掘跡があり(対岸の金山にもある)、戦時中それを掘り返したりしたとか。

 土層は薄く直物の育成には不適の山でも、いつしか雑木類が繁茂。享保年間(1620年代)には藩林として松が植林された記録があります。
 
 山の北鹿にJR曽波神駅がある。駅名由来説明板によると、アイヌ語で「ソ」とは「水中の隠れ岩」、「ハ」は「水や潮が引くこと」の意味。このあたりまで海が入り込んでいた昔、この山が時に大きく見えたり、小さく見えたりしたことでそう呼ばれたのでしょうとのこと。「神」は山頂に鎮座する愛宕神社のこと。中腹には曽波神社がある。

 ところで、この山頂から藩政時代、石巻を開いた大恩人・川村孫兵衛が北上川開削を指揮した話はご存知? その様子を描いた絵図も鹿又は八雲神社にあるとのことで拝見したが、絵図は明治期の作であり、絵からは山頂かどうか特定できないそうです。

 今、同駅周辺には民家や事業所が結構密集しています。この震災であらたな住宅地が石巻の北西・蛇田地区に造成中です。不動産業界の一部には早くも市の北に位置するこのあたりも開発の狙い目と皮算用をはじく業者がいます。その理由は「神のつく地名のところは歴史的に発展しているところが多い。神戸しかり、神田、神楽坂…」。それこそ神がかり的な発言。

このポーズ、どこかでみたことはありませんか。はい、日和山の銅像とそっくりですね


左が曽波神山。右の馬っこ山麓に石巻専修大。その間の陥没したところを北上川が流れる

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続・まちあるき帖 蛇田の小斉

 石巻の西、畑と田んぼの蛇田地区。石巻近郊、野菜類の産地です。国道108号線が走っています。三陸道開通以降、地区は様変わりしました。大型商業施設が進出すると見る間に商業集積が進んで宅地の開発も行われています。

 この蛇田の西外れに位置するのが小斉地区。この地が367年前、正保3年(1646年)3月、県南は伊具郡丸森小斉からの移住者たちによって開かれたことをご存知でしょうか。移り住んだご先祖さんたちはここに故郷と同じ地名を残しました。

 さて、移住してきた原因です。仙台藩第2代藩主伊達忠宗の時でした。丸森小斉の領主・佐藤実信(1千8百石)は伊達家の一族。当時、藩内では2、3男対策を背景にした新田開発が盛んで、佐藤家も分家にした2男・定信の新天地移住を考えていたのです。藩は定信に蛇田邑高屋敷の野谷地51町歩を下げ渡したそうです。「切り開き知行存分たるべし」とのお墨付きを付けて。

 定信を殿様として従う家臣は73人(士分40、足軽33人)で、総勢150人(40数戸)ほどの開拓団だったそうです。定信28歳、家臣団も18~30歳どまりでした。移住前、急ぎ結婚した人や乙女が14,5人いたそうです。

 丸森から蛇田までの道のりは約100㌔。今は車で2時間の距離でも当時はもちろん徒歩。仙台、塩釜、松島を経て広渕、須江に入っています。2泊3日の道中だったとのこと。家臣が引く大八車にはクワ、カマ、マサカリの農作業道具類。日用品、衣類は「唐戸(からと)」という木車付き箪笥型の箱に入れ運んできました。

入植地は荒れ放題の湿地です。夜を日に継ぐ開墾作業で次第に美田へと姿を変えました。その原動力は一族意識で結ばれた固い団結心でした。「知行存分」のお墨付きも後押ししたでしょうか。以来40年後、表向きの知行は400石になっていたそうですが、内実は1千石だったそうです。知行1千8百石でも家臣2百数十人を抱える本家をしのぐまでになっていました。

 蛇田小斉には「お上屋敷」「ご門崎」「お上前」「馬場通り」と呼ばれる場所があります。「お上屋敷」は文字通り殿様のお屋敷。現在の石巻支援学校向かいにあったらしいです。今はどこがどこやら福祉施設が建っていて分かりません。

 定信公は82歳まで生きました。付近には佐藤家の氏神様「雷神社」(なりがみさま)もあり、殿様は家臣の家内安全、五穀豊穣を祈っていたそうです。平成16年、子孫らの手で再建されました。また平成の初めころ、本家と分家の子孫同士による3百数十年ぶりの交流会があったと聞きました。同じ名前、似たような顔が出会って交流を深めたそうです。

                      佐藤家氏神「雷神社」と「唐戸」の図面
 

小斉の北に位置する土和田山から当時のお屋敷付近?と開拓地を遠望。

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続・まちあるき帖 尾ぶちの牧

 芭蕉の「奥の細道」石巻の項に「袖のわたり、尾ぶちの牧 真野の萱原などよそ目に見て 遥かなる堤を行く」と記された一行が出てきます。松尾芭蕉は元禄2年(1689)5月、石巻に来て一泊、平泉に向かいました。

 この中の「尾ぶちの牧」ってどのあたりだったと思います? 芭蕉に同行した曽良は「尾駮御牧 石巻の向 牧山と云有 その下也」(名勝備忘録)と補足しています。

 「牧山の下」といっても東西南北がありますが、彼らは北上川を渡ることなく平泉への道を北行したこと、「真野の萱原をよそ目に」見たことなどをあわせ考えれば、そこは牧山の北の稲井地区にあたります。ある史家によると「尾ぶちの牧」の「尾ぶち」とは「お(あ)うち」から「おふち」「おぶち」への転化で、王地、凹地、奥地の字をあてるのだそうです。都人が原野と荒馬をイメージして歌に使った言葉だとのことです。 

  みちのくの あふちの駒も 野飼には 
        あれこそまされ なつくものかは(藻塩草)  

という歌もあります。
 ここに「駒(馬)」が出てきました。馬はどこにいますか。「牧」にですね。牧とは「牛馬などを放牧できるように設備した土地」のことです。「牧山の下」は牧場だったということでしょうか。

 稲井地区と言っても少々広く、「牧山の下」の場所を絞り込むとそこは平形、台、沼津、越田の地区とのこと。その根拠は平安期から鎌倉期まで「馬」のことを「むま」と発音したということです。つまり沼津は「むまつ」からの転化であり馬の積み出し地だったという説です。ここに海が入り込んでいた古代、船で都へ積みだされたというのです。当時、馬は強力な戦力以外のなにものでもなく、権力の象徴でしたからそう言われれば納得できないではありません。

 芭蕉が来たころはその歴史は終わって歌の世界だけの話になっていたのですが…。ちなみに、東京の目黒の語源は「馬畔」(めぐろ、牧場のあぜ道)で鎌倉期は馬の供給地だったことを示しているそうです。

沼津貝塚(国史跡)周辺の小盆地が馬の放牧場だったらしい

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