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九死に一生

死者・行方不明4,000人の石巻。
大震災・大津波から2年。石巻の犠牲者は約4,000人に達してしまいました。なぜ、これほどまでに。旧石巻市内と呼ばれる地区だけでも約2,100人が亡くなっています。内訳は石巻・門脇(釜地区を含む)で1,100人、湊・渡波で1,000人です。

この数字から思えるのは、ここに住む60歳以上の人が「津波来襲」と聞いて思い出したのは、昭和35年の「チリ地震津波」(石巻の犠牲者は死者1人、行方不明1人)だったのかも。「あの程度なら」と避難しなかった人が相当数いたのでしょう。
石巻では津波に対する警鐘がなかったわけではありません。「リアス式海岸の湾奥では津波の高さが2倍から3倍にもなります」とのコメントが少なからず身に染みていたはずです。ところが「石巻はリアス式海岸ではないからそんなに波は高くならない。2階にいれば大丈夫」と逆にとる人がいたことも否定できません。

 確かに、南三陸町や気仙沼、当地方では女川、雄勝、北上、牡鹿の太平洋に面するリアス式海岸の町々と比べれば、旧石巻地区の津波被害は軽微なものでした。それを示すいい例が昭和8年の三陸津波で、その被害を語り継ぐため建てられたという「津波の碑」(三陸沿岸各地に200か所)が当地にはありません。金華山東方沖からの津波を牡鹿半島が遮った結果、広く開く石巻湾もあって波が大きくならなかったのです。ただ今回は2~3㍍の津波でも死者は出ると知りました。

石巻では避難命令が出て実際に津波が来るまでほぼ1時間の余裕がありました。これが一旦避難した人々を自宅に戻らせたのです。理由はさまざまです。「戸締りを忘れた」「財布を持って来よう」「つないできた犬を放そう」などなど。
この例にも過去の津波被害の軽さがあります。近年、当地方では津波警報を伴う地震が続いていました。しかし、その津波は北上川河口部でも判然とはしませんでした。これが度重なっていた末の大震災でした。高台に避難して30分を過ぎたころ、「またか」という思いが生まれました。高すぎる代償を払い「とりあえず警報解除まで待とう」という教訓を得ました。

車による避難も最悪の事態を招きました。地震15分後、道は大渋滞です。庶民にとって車は財産で命と引き換えとはいえ、乗り捨てる決断はつきかねることでしょう。
その中まれな例ですが、波に流されながらもパワーウインドーが運よく効いて窓から脱出できた人もいました。車はドアの3分の1が水につかると内側から開けることはできません。電子制御で動く現在の車は水に浸かると一瞬で機能を停止します。「幸運」以外のなにものでもありません。
  以上、県内最大の死者をだしてしまった石巻の原因らしきものをまとめました。

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