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大団円湊(6)_‶松巌寺といづおんつぁん″新町、東町

荒町から堀を境に新町に入る。この堀、古くは桜川と呼んだという。牧山から流れ出て往古はサケものぼったとか。記憶にあるのは加工屋の煮汁を流す文字通りのどぶだから信じられない。現在の湊町3丁目。南東に進んだ道がここまで来ると、とても北上川沿いの街とはとても言えず、むしろ内陸の荒地を開発した感じ。

新町の西端には松巌寺。戦前だが、ここの住職を頼ってあの辻潤(翻訳家)がきたという。加工屋、石屋、馬車屋と若干の商店があった。そして民家があって畑や魚かす(肥料)の干場(空き地)が広がっていた。朝鮮人集落があり昭和35年、そこの同級生が北朝鮮に帰っていった。

いよいよ湊の東端の街・東町に入る。現湊町4丁目。江戸期、足軽町だったとの石柱が建っている。石巻にあった代官所もしくは湊地区にあった米蔵(管理取締などで)出勤していたのだろうか。ちなみに門脇本町に代官屋敷があり、袋谷地(現水明地区)にも足軽が住んでいた。

新町との境はやっぱり堀。今は暗渠になったが、やはり煮汁が流れるどぶだった。つまり、ここは加工屋の街だったということ。そして田んぼ、畑も広がっていた。そこに小学校(湊第2小)湊中学校ができて住宅化も進行した地区。一皇子神社の氏子が住む町とのイメージがあった。大正期、鉄道馬車が走った道(北行区間)が大門崎に突き当たると東にカーブ。後は渡波まで田んぼの中の一本道だった。

【写説】町はずれに戻った新町、東町。北行すれば大門崎

新町

東町

大門崎

以上、湊の思い出。あやふやな記憶はご容赦を。町の形はきっと変わるだろうが、今はただこの湊に人々が戻ることを祈るのみです。

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